<信頼について>

「私たちが相手に専念する時、相手を深く信じて、自分の誓いにふさわしい相手だと信頼しなくてはと考えます。けれども本当は、相手は誰もと同じ、試練も強みも持ちあわせた誰かに過ぎないのです。

もし私たちが一つの崇拝対象に信心すれば、おそらく後にその信心を失うことになるでしょう。もし私たちが一人の人に全幅の信頼を託せば、後にその信頼も失うことになるかもしれません。私たちは深い信頼を、もっと不動で永続的な何かに置く必要があるのです。私たちは深い信頼を、自分自身と内なるブッダに置くことが必要なのです。

幸福を自ら生み出す力を持つ人たちを目にするとき、それは私たち自身の仏性への深い信頼をもたらします。この信頼とは理論ではありません; 現実なのです。私たちがまわりを見渡して、一人の人が幸福と慈悲と共に生きていることが分かれば、そのこと自体が他者を幸福にする力を持っているのです。理解力や愛する力がない人は、その人自身が苦しみ、そして他の人たちをも苦しめてしまうのです。

 

迦羅摩経には、若者がブッダにこう申し出る箇所があります; 『たくさんの精神指導者たちが私たちを訪ねて来ます。そうした師たちの多くが自分の方法こそ真実の方法であり、その方法ならうべきだと話します。一体誰に従ったらいいのか分かりません。どうかどうすべきか教えてください。』

ブッダはこう話しました。『有名な精神指導者がそう話したからといって、信じてはいけません。聖典にそう記されているからといって、信じてはいけません。誰もがそう信じているからといって、信じてはいけません。慣習でそう決まっているからといって、信じてはいけません。

何かについて聞いたら、それを入念に検証し、理解して、応用するのです。応用してみて結果が伴えば、それを信じてもいいでしょう。もし結果が伴わなければ、たとえ慣習や聖典、精神指導者の誰々によるものだからといって、信じるべきではないのです。』」

ーティク・ナット・ハン